ライトノベルのソムリエ@おススメの1冊

入間人間『六百六十円の事情』

永田 大輔 (筑波大学大学院人文社会科学研究科院生)

『六百六十円の事情』著者:入間人間(メディアワークス文庫)株式会社KADOKAWA アスキー・メディアワークス

前回、学校という空間の持つ他者への想像力の持つ負荷に関して議論しました。閉じられた想像力の問題を考え、乗り越えるために重要なものとして群像劇があります。この群像劇という作品の特徴は、様々な一人称の視点がありながら、読者以外にはその全体の世界観を見ることはできないことにあります。群像劇と呼ばれる小説を読むことでわかるのは、自分があれこれと身勝手に考える程度に他人も身勝手に考えていることであり、そしてそれぞれ身勝手に考えた人々が一つの社会をかろうじて営んでいるということです。その群像劇を楽しむ小説として今回紹介するのは、入間人間の『六百六十円の事情』です。公式の帯文とあらすじは以下の通りです。

 

『六百六十円の事情』著者:入間人間(メディアワークス文庫)株式会社KADOKAWA アスキー・メディアワークス
『六百六十円の事情』著者:入間人間(メディアワークス文庫)株式会社KADOKAWA アスキー・メディアワークス

どーでもよくて、とてもたいせつな、それぞれの事情。――カツ丼 六百六十円。

 

世の中には、いろんな人たちがいる。男と女。彼氏と彼女。親と子供。先生と生徒。そして爺ちゃんや婆ちゃんとか。その中には、「ダメ人間」と「しっかり人間」なんてのも。

 

あるところに、年齢も性別も性格もバラバラな「ダメ」と「しっかり」な男女がいた。それぞれ“事情”を持つ彼らが描く恋愛&人生模様は、ありふれているけど、でも当人たちにとっては大切な出来事ばかりだ。そんな彼らがある日、ひとつの“糸”で結ばれる。とある掲示板に書き込まれた「カツ丼作れますか?」という一言をきっかけに。入間人間が贈る、日常系青春群像ストーリー。

 

以上が、この本の帯のあらすじですが、はっきりと言ってしまうとこの本の内容はあらすじに尽きるお話です。ここで言っている掲示板とは、ある地域で使われているさびれたSNSの中の掲示板です。ちなみに「六百六十円」は、その地域の掲示板がある町の定食屋さんのカツ丼の値段です。この話は基本的にその掲示板に最初に書き込んだ人物も含めた5人の「六百六十円」の事情によって構成されています。

 

しかし、ここで話を終わらせてもしょうがないので、その群像がどのような意味において配列されているかに関して簡単に紹介しておきましょう。掲示板の最初の書き込みである「カツ丼を作れますか」という書き込みを見て、それぞれの人々が勝手に自分たちの現状に従った行動をそれぞれにします。その事情は非常に個人的なたわいもないものです。

 

些細な想像力をめぐって

 

例えばカツ丼という言葉から、彼氏に養われながらなんとなくギターを弾き続けるミュージシャンの女性やニートの男性にとってのカツ丼の意味や、親がカツ丼ばかり作る少女にとってのカツ丼、カツ丼屋でバイトしている高校生にとってのカツ丼など人それぞれのカツ丼の意味が語られます。そして、それぞれがカツ丼という言葉に関して様々な思いを持ち、勝手に行動をしていきます。この話ではそれぞれの人生に従って勝手に動き出したそれぞれの人たちが、ほんのちょっとだけ狭い街の中でコンタクトをとり、同じ日常を生きているんだと再確認する話です。そして、一通り物語が終わったあとにそれぞれが大きく変わるわけではないけれども、ほんのちょっとだけ変わってそれぞれの日常・事情に帰っていく、そんなお話です。

 

紹介したように、この話はそれぞれに人生を変えるようなドラマが描かれるわけでもありません。世界の存亡を脅かすような大きな出来事がありません。そういう些細な話です。だからこの本を読んでもみなさんの想像力や人生が大きく変わるわけではありません。だけれども、こういう些細さを大切にしてそんな些細な想像力の変化をするきっかけになってくれればいいと思い、この作品を他者への想像力を学ぶうえでの第一歩としてみなさんに紹介したいと思います。お値段は660円よりはわずかに安いので、そういう660円の事情をお楽しみください。


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