統計物理・非平衡物理、物性基礎

時間に向きがあるのはなぜだろう

田崎晴明先生 学習院大学 理学部 物理学科

田崎先生おススメ本
『だれが原子をみたか』
江沢洋(岩波現代文庫)
「原子は存在するのか」という基本的な問いに正面から答える素晴らしい本。できあがった科学の解説を学ぶだけでなく、こういう本を、じっくりと時間をかけて、計算を追いながら熟読してください。
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第1回 時間の向きを逆にしても変わらない物理法則
~ボールの運動は可逆、ビルの解体は不可逆

今日のテーマである「時間に向きがある」というのは、私たちにとってはとても当たり前なことです。当たり前なことではあるのですが、物理の知識が増えるに従って、これがとても不思議な現象だということがわかってきました。


例えば、バスケットボールのシュートをビデオで撮っていたとします。その映像では、シュートしている人の手からボールが離れてゴールに入っていきます。

 

それを逆再生すれば、ゴールからボールが出てきて、人がキャッチするように見えます。逆再生だといわれなければ、あまり違和感を覚えないかも知れません。なぜなら、逆再生しても、ボールはきれいに放物線を描いて運動しているからです。それを可能にしているのが力学法則の可逆性というものです。可逆性というのは、読んで字の如く逆にすることができる性質ということです。ボールを投げる運動は、時間を逆向きに進めても、まったく同じ物理法則が成り立ちます。それを実際に計算してみましょう。

 

本当は二次元で計算したいのですが、全部やるとたいへんなので、ここでは縦方向だけ計算してみます。高校3年生は、横方向の計算を自分でやってみてくださいね。それでは計算を進めてみます。縦方向を y 軸にして、下に向かって重力が働いているとします。時刻 t のときのボールの位置は y(t) 、ボールの最初の位置を y0 、最初の速度の y 方向の成分を v0 としましょう。ここで、時間 t の範囲は 0 から T までとします。つまり、ボールを投げはじめた時間が 0 で、ゴールに入った時間を T とします。すると、縦方向の運動を表す式は、

となります。

次に、時間を逆向きにして同じ運動を見ていきたいと思います。先ほどは時間を t にしましたが、逆向きの時間を s とします。これは、

で表されます。ここで、ts はちょうど逆の関係になります。つまり、t が 0 のときは、sT となり、tT のときは、s は 0 となります。この式を t について解くと、

となります。

ここで逆向きの運動を考えていきます。逆向きで運動するボールの位置を

という文字で表しましょう。~はチルダと読みます。このチルダに逆という意味があるわけではありませんが、y をひっくり返したということで、チルダをつけると大学っぽいですし、同じ y だけど時間を逆向きにしているということをわかりやすくするために上記のように書きました。

となります。

これは変数 s の2次式ですね。この式はまだゴチャゴチャしているように見えますが、定数の部分の

と置き換えることができます。すると、もとの式は、

となり、(1)の式と同じ形になります。

バスケットボールを投げる運動では、時間が順に送られたときも、逆に送られたときも、どちらも物理法則が同じように成り立つことを証明しました。これは、(1)と(2)の方程式はどちらも同じものになったことで、よくわかったのではないかと思います。


この2つの式で違うところがあるとすれば、初期の位置や初期の速度といった初期条件だけです。でも、それさえ調節すれば、時刻を t で書いた順方向の運動に対して、s で表した逆方向の運動も、同じ等加速度運動になっていることがわかります。しかも、重力加速度 g の符号は変化しません。今は y 軸の方向だけを計算しましたが、x 軸方向を含めても同じ結果が出てきます。つまり、ボールを投げる運動があれば、それを逆回しにした運動も実現することができることを意味しています。

 

この運動の可逆性は粒子の数が多くなっても成り立ちます。ニュートン力学の運動法則だけでなく、量子力学でも、逆の運動をつくることは可能になるのです。こう考えていくと、時間に向きがないといってもいいのではないかと思えてしまいます。

ボールの運動とビルの解体はどこが違う?

もっとも、先ほど私が例に出したのは、バスケットボールを投げたときのボールの運動についてでした。でも、これがビルの解体だったらどうでしょうか。ビデオで逆回しをするように、逆の運動が生じるでしょうか。


バスケットボールの運動も、ビルの解体も、どちらも力学の法則に従って運動をします。しかし、バスケットボールの運動は逆回しをした運動が可能ですが、ビルの解体の場合は、逆回しの運動が起きることはありません。ただ、その違いがどこにあるのかは、まだ完全にはわかっていません。


現実の世界には不可逆な振る舞いが存在します。というか、現実はそんな振る舞いだらけです。お皿を落として割ってしまえば元に戻りませんし、こぼした水を再びコップの中に戻すことも不可能です。でも、物理法則だけに注目すれば時間を戻しても成り立つ可逆性が出てきます。これはとても不思議なことです。これもやはり、私たちの知識が増えたことによって出現した不思議な現象の1つです。


力学法則では時間の向きがないのに、現実世界には時間に向きがあります。時間の向きがない可逆的な力学法則から、どうすれば時間に向きのある現実世界の振る舞いが生まれてくるのかとても不思議です。

 

興味がわいたら Book Guide

『熱力学―現代的な視点から』

田崎晴明(培風館)

田崎先生が 2000 年に出版した新しいタイプの熱力学の教科書。今や国内の定番教科書の一つとなっています。高校生には難しいですが図書館などで借りて最初のほうを読むだけでも大学での物理の香りに触れられるでしょう。

 

『数学:物理を学び楽しむために』

田崎晴明

田崎先生が執筆中の大学の数学の教科書で、すべてネットで公開されています。少し背伸びしたい高校生、受験が終わって大学に入る前の人たちが、大学の学問に最初に接するには格好の本です。

http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/mathbook/

『やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識』田崎晴明(朝日出版社)

2011 年3 月の東電福島第一原子力発電所の大事故を受けて、田崎先生が発表した放射線についての入門書。既に事故から5年以上が経ちましたが放射線の基礎についてこの本に書いてあるレベルのことを知っておくのは大事なことです。理系の高校生なら軽く読みこなせるでしょう。出版された本と完全に同じものがネットで無料で公開されています。

http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/radbookbasic/