統計物理・非平衡物理、物性基礎

時間に向きがあるのはなぜだろう

田崎晴明先生 学習院大学 理学部 物理学科

第2回 時間の不可逆性はどのようにして起こるか

 

バスケットボールを投げる運動とビルの解体の違いを、つまり、時間の可逆性と不可逆性の違いはどうして起こるのかを考えていきましょう。本来ならば、ニュートン力学や量子力学といった基本的な物理の理論を使って考えていきたいのですが、それはとても難しいので、ここではある種の模型のようなものを使って考えていきましょう。エーレンフェストという人が考案した「エーレンフェストの壺」というものです。

2つの壺とボールを n 個用意します。ボールにはそれぞれ、1,2,3,4,5,…と番号がついていて、同じ番号はありません。最初にどちらか片方の壺にボールをすべて入れておき、そして、サイコロを振って、1から n の数字をランダムに選びます。もし、数字が1から6までだったらふつうの6面のサイコロを振ればいいわけですが、10までだったら10面サイコロになりますし、1万だったらサイコロではなくコンピュータを使う必要がありますが、とにかく、でたらめに1つの数字を選びます。そして、選ばれた数字の書かれているボールを、そのときは入っていた壺と反対の方に移動させます。

 

ルールはこれだけです。なぜ、このようなものを使って考えていくかというと、現実世界の時間の不可逆性を理解する鍵を得ることができるのではないかと期待しているのです。このゲームはボールを動かすルールが可逆性を持っています。サイコロを振ってボールを動かすだけなので、過去と未来の区別はありません。時間をすべて逆にしても同じことが起きます。ちょうど、力学法則に時間の向きの区別がなかったのと同じようなものです。

 

実際、コンピュータを使ってこのゲームをやってみるとおもしろいことがわかります。n が5や10くらいだったら時間の向きを感じることができないのですが、n を1000にすると、それぞれの壺のボールの数が500くらいで落ちつくように変化していき、時間の向きを感じるようになるのです。

縦軸は一方の壺に入っていたボールの数。横軸はボールを動かした回数。
縦軸は一方の壺に入っていたボールの数。横軸はボールを動かした回数。

つまり、同じルールに従ってゲームを進めているのに、n が小さいときは時間に可逆性があったものが、n が大きくなるとボールの数が n /2と、ちょうど半分くらいの数に近づいて落ちつくようになります。それはあたかも、時間に向きがあるような振る舞いです。

 

これはいったい、何が起きているのでしょうか。

 

「偏った状態」から「均等な状態」へ時間は流れる

壺に入れるボールの数が少ないときは時間が可逆となる現象が起こっていましたが、ボールの数が多くなると時間の不可逆性が表れてきました。その違いがどこから来るのかを考えていきましょう。


私たちが出発点としていたのは、例えば1000個のボールをすべて片方の壺に入れておくという、とても偏った状態でした。エーレンフェストの壺の実験では、とても偏った状態から、1000個のボールがほぼ500個ずつに分かれるという均等な状態に向かっていったわけです。


偏った状態を実現するのは、確率的にとてもとても難しいことです。例えば、1000個のボールがすべて片方の壺にあるという状態は、たくさんの可能性の中から1通りしかありません。一方、2つの壺に500個ずつのボールが均等に分かれるという状態では、それぞれのボールをどちらの壺に入れるかという選択肢があるので、場合の数はとても多くなります。


このように考えていくと、ごく少数の偏った状態から、膨大な数の均等な状態へ移っていくという流れがあるのは、自然なことのように思えてきます。そこで、私が例に出したビルの話を思い出してください。ビルが建っている状態から崩れていくのはよくある話ですが、ビルが崩れた状態から建っている状態になっていくというのは、たぶん、誰も見たことがないと思います。その理由も、このエーレンフェストの壺から見えてきた理屈で、ある程度説明がつきます。

ビルが建っている状態というのは、コンクリートや鉄筋といった材料を集めてきて、設計図通りにきちんと組み立てられていなければなりません。このようなやり方は、一通りとはいいませんが、かなり限定されます。うまい具合に絶妙な状態にしないと、変なビルになってしまいます。その一方で、ビルを打ち砕いて、がれきにしたものを、その辺に置いておく方法は、ほぼ無数にあります。ビルが建っているという秩序ある整然とした状態はとても少ないのに対し、ビルが壊れてがれきが散らばる状態はとてもたくさんの場合が考えられます。ですから、ビルが建っている状態から壊れてしまう状態になっていくように一方的に変化して、時間の流れができるということになるのではないでしょうか。


興味がわいたら Book Guide

『だれが原子をみたか』
江沢洋(岩波現代文庫)
「原子は存在するのか」という基本的な問いに正面から答える素晴らしい本。できあがった科学の解説を学ぶだけでなく、こういう本を、じっくりと時間をかけて、計算を追いながら熟読してください。

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『熱力学―現代的な視点から』

田崎晴明(培風館)

田崎先生が 2000 年に出版した新しいタイプの熱力学の教科書。今や国内の定番教科書の一つとなっています。高校生には難しいですが図書館などで借りて最初のほうを読むだけでも大学での物理の香りに触れられるでしょう。

 

『数学:物理を学び楽しむために』 田崎晴明

田崎先生が執筆中の大学の数学の教科書で、すべてネットで公開されています。少し背伸びしたい高校生、受験が終わって大学に入る前の人たちが、大学の学問に最初に接するには格好の本です。

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『やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識』

田崎晴明(朝日出版社)

2011 年3 月の東電福島第一原子力発電所の大事故を受けて、田崎先生が発表した放射線についての入門書。既に事故から5年以上が経ちましたが放射線の基礎についてこの本に書いてあるレベルのことを知っておくのは大事なことです。理系の高校生なら軽く読みこなせるでしょう。出版された本と完全に同じものがネットで無料で公開されています。

http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/radbookbasic/