学問本オーサービジット(筑波大学協力)

「イツメン」と呼ばれる若者の人間関係のどこが悪いのか

~『つながりを煽られる子どもたち』を読んで

アイデンティティ論・土井隆義先生+自由の森学園高校の高校生9人

●オーサー 土井隆義先生

筑波大学 社会・国際学群 社会学類/人文社会科学研究科 国際公共政策専攻

●参加者 自由の森学園高校 9人

●実施 2017年1月25日

「アイデンティティ論<人間関係論としての社会学>」を学べる大学はこちら

『つながりを煽られる子どもたち』(岩波ブックレット)
『つながりを煽られる子どもたち』(岩波ブックレット)

『つながりを煽られる子どもたち』

土井隆義(岩波ブックレット)

現在の日本人のコミュニケーションは、インターネットの発達によって希薄になっているのではなく、むしろ濃密になっています。子どもたちのネット依存も、LINEのようなアプリの浸透によって人間関係の常時接続が可能になった結果といえます。また、今日のいじめ問題も、そのつながり依存の一形態として捉えることができるでしょう。しかし冷静に考えてみれば、所詮ネットは単なる道具にすぎません。結局はそれを使いこなす人間の問題であるはずです。

 

では、現代の日本人に「つながり過剰症候群」が広がってきた背景には、いったいどんな事情が潜んでいるのでしょうか。本書は、それを価値観の多様化と社会の流動化という社会現象に求めます。そして、社会学的な観点からつながり依存の心理的メカニズムを解明していきます。抽象的な議論だけではありません。高校生の皆さんや、皆さんが日々接している学校の先生や親など、いろいろな人たちの意識調査の結果を使いながら、今日の人間関係の特徴について考察を行なっています。

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◆先生の研究分野である、「アイデンティティ論<人間関係論としての社会学>」について簡単に説明してください。

 

通常、アイデンティティの問題は心理学のトピックと考えられています。この用語を一般に広めたのも心理学者のエリクソンです。しかし、社会学においても、アイデンティティの問題は重要なトピックとなっています。人間が社会的存在である以上、アイデンティティもその観点からとらえる必要があります。それは、個人の変数であると同時に、社会の変数でもあるのです。民族紛争や戦争といった国家をまたぐ大きな問題から、犯罪や非行、自傷や自殺といったごく個人的な問題まで、現代社会を生きる人々のアイデンティティをめぐる問題として理解することができます。

 

◆オーサービジットで取り上げる本から、先生の分野に関して、どのようなことを知ることができますか。

 

現代人のアイデンティティの特徴がどのようなものであり、それが過去のものとどのように異なっているのかを知ることができます。またその変容がどのような社会背景から生じた現象なのかを知ることもできます。

 

現代の日本では、社会的な格差が進行し、経済的な生きづらさを抱えた人びとが増えています。そのため、自傷や自殺を企図する者も、過去より高い人数を示しています。しかし同時に、現代の日本では、一般的に幸福度が上昇しており、したがって犯罪や非行は激減しています。このように、表面的には相反しているように見える現象も、その社会背景をよく眺めれば、じつは同根の現象であることが見えてくるのです。

 

現代社会は、複数の意味の層から成り立っています。その層を一枚一枚めくっていく作業が、いわば社会学の醍醐味といえます。ぜひその作業の知的興奮を皆さんにも味わっていただきたいと思います。

 

 

貧富の差は広まるが幸福を感じる若者たちは増加。その背景を解説

◆オーサーはどのような話をしましたか。

 

前半は著書『つながりを煽られる子どもたち』に対して、私たちからの質問に応じるかたちで説明を受けました。なぜ女性の方が周りの視線を気にするのか、『イツメン』という集団の中のコミュニケーションは他のコミュニケーションとどこが違っているのか、コミュニケーションのあり方が変わったとされている1990年に何が起こったのか等についてです。さらに「イツメン」と呼ばれる若者同士の関係のあり方について、“学校という空間”に埋没する私たちの現状について話していただきました。

 

後半は、本書の先にある問題として、生活圏は閉塞しつつも、そこに幸福感を得る若者の増加現象、あるいはその背景について解説してもらいました。

 

それは次のようなことです。近年、若者の期待値が低くなってきています。幸せだと思う人は多いが、貧富の差は広まる一方であるという不思議なことが起こっています。SNSの影響もあり、好きな人としか繋がらない狭い世界に生きる若者たち。同じような水準の人が集まるから不満がなくなり、同時に成長しなくなるというのがその原因として考えられるということです。「何もしなくても幸せ」というのは、余命少ないお年寄りと同じ思考である。知らず知らずのうちに閉じてしまっている人間関係を広げていくことが求められるとオーサーは話しました。

 

◆どのようなことをディスカッションしましたか。

 

・「イツメン」という人間関係について→「イツメン」のどこが悪いのか?/「友だち」とは?「親友」とは?

・「アーキテクチャによる統制」/「環境管理型の権力」について

・マナーの本質がコミュニケーションそのものから、それを避けるためのものと変わってきている→マナーの向上と現代社会の閉鎖性とのつながりについて

 

「学校空間自体が『イツメン』になり得る」「学校に埋没しないように」の言葉に不意を突かれた

<学問本オーサービジットに参加して>

◆オーサーの話では、どんな内容が印象に残っていますか。

 

◆「ここでは、学校空間自体が『イツメン』となり得る」と土井さんがおっしゃっていたのが、とても印象に残っています。何の気なく、「この学校だから」という言葉を使っている生徒が多くいて、それらに対して反抗心を持ってきました。おそらくその理由は、周囲を遮断し、互いの関係を確かめ合う「イツメン」の状態が学校全体を覆っていて、それに対する遮断方法が「自分は違うから」という意識を持つことだったからだと振り返ります。お話を伺って、「この学校だから」という言葉に何かしらの引っかかりを感じながらも、それを自分の問題として考えようとしていなかった自分に気づかされました。(組田菜穂子さん 1年)

 

◆「イツメン」の定義を、もっと明確に聞いておきたかったと、若干の後悔があります。常時連絡を取り合える相手、実は個人個人同士だと向き合っていない相手、一定の距離以上は踏み込まない相手、ケンカなんてしない相手…。「イツメン」とは、これらの性質を全てひっくるめて「独りぼっちにならないための保険」なのだと土井さんが話してくれた。…「イツメン」って本当に、何なんだろう? 

 

人間って、依存する生き物なんだと思う。依存しないとやっていけないと思うことが、私自身にもいっぱいある。その依存心が、もし純粋なものであるのなら、それはそれでいいと思う。でも「イツメン」という関係がその人にとって、独りぼっちにならないためだけにあるものだとしたら、そこには曲がった、濁った何かが入り込んでいるから、ストレスに変わっていくわけだと思わされる。「独りになりたくない」、「ここを抜けたら、もう後がない」といったネガティヴな思考でその場所に居座っているだけなら、それはよくない依存で、よくない「イツメン」だと思う。「この人たちとじゃないと生きられない」、「ここにいるしかない」というようなことではなくて、もっとはっきり自分を持って「他もあるけど、いつでも抜けられるけど、それでもここにいたい」、「自ら進んでここに縛られていたい」といった、ポジティヴで透明感のある関係性ならば、いい依存、いい「イツメン」と言えるんじゃないかと思う。(宮崎あかねさん 1年)

 

◆若者のマナーの向上とコミュニケーションを取る機会とが反比例の関係にあること、そしてその理由についての話が、とても印象に残っています。ニュースや新聞では、マナーの悪化にばかり意識が向けられているような気がしていましたが、土井さんは全く異なる視点からマナーの問題について述べていて、感心させられました。(山口雄史くん 2年)

 

◆「『イツメン』という内輪でできたつながりの中で、自分の居場所を確保するために互いに依存し合っている」というような、若者に見られる現状を他人事のように見ていた私は、土井さんの「自由の森学園に埋没しないように」という言葉に不意を突かれてしまいました。「イツメン」というかたちでなくても、他を遮断し、内輪感だけで成り立つ生活圏の内閉化というものに、私たちはいつの間にか陥ってしまうものなのだと気づかされました。(碓井多美子さん 3年)

 

◆「イツメン」と呼ばれるような関係性の薄い、ただ一緒にいるためだけの関係は、私にとっては遠いことのように感じたのだけれど、「『イツメン』とは、その関係性に自分自身が依存しているということでもある」と土井さんが話していて、「たしかに!」と納得したのと同時に、自分もある関係性に依存しつつ、そういうもので自分を保つ人間になりかねないな、とぞっとした。(松岡穂乃実さん 3年)

 

◆「期待値-現状=不満」。この式をめぐる説明が一番興味深かったです。それと同時に、今時の若者というのはある意味、“まずい”場所にいるんだなと危機感がこみ上げてきました。

 

また、貧富の差が、そのまま学力の差へと移行していってしまう現代社会の有り様については、どうにかして越えていかなくてはならない問題だと感じました。貧しい家に生まれた子どもたちのやる気がどんどん奪われてしまう、非常事態だと感じました。(山田莉子さん 3年)

 

◆現代人の「人生観の萎縮」についての話が、とても印象に残っている。納得して頷けるところも多いし、そうなりたくなくて抗っている自分自身を見つけることもできた。考えの多様性が失われていくことは、本当に怖いことだと思う。(山田瑠璃さん 3年)

 

◆親の収入が、子どもの学力に大きく影響を与えているという話が印象に残った。低収入の親の子が、家で3時間勉強してやっと家で勉強していない高収入の親の子の学力に追いつくことができる。統計上の話だから例外はもちろんあるだろうけれど、そこには学力というものに対する期待値の高さが大きく関わっていることがうかがわれる。周りの環境が無意識のうちにその人をつくっていくけれど、自分の立たされている状況を自分で一回客観視できれば、主体的にその流れを変えていくことができるのかもしれないと考えさせられた。(浅川風子さん 3年)

  

◆オーサーの話から、どんなこと考えましたか。

 

◆土井さんのお話を伺ってから、今の社会が全体的に臆病になっていることに考えが向けられるようになりました。LINEやツイッター、フェイスブック等のSNSにおいて、すぐに返答しなければならないと極端に気を遣う人や、スマホ(仲間とつながるためのツール)を持たないことを怖がる人たち、土下座を客に求められ、それに応じてしまうコンビニ店員……そういった臆病さとは、まさしく「自分の価値、評価がすぐに変化する」流動的な社会によって生み出されたものだと感じます。

臆病さとは生来備わっている本能的な感覚であり、欠くことはできません。それが存在することにより、新たな技術や発見が生み出されてきました。車の自動ブレーキ機能や駅のホームに設置された転落防止用ドアは、その代表例でしょう。現代社会では、臆病であるというスイッチが、常に「ON」の状態になってしまっているように思います。

 

またこれまで「友人」とは、気の許せる存在と思われてきましたが、現代における「友人」とは、スマホというツールの発達により、常に気を遣い続けなくてはならない存在へと変化してしまいました。そのために一つのグループで固定化し、それぞれに「キャラ」という明確な評価の物差しが与えられ、そこからはみ出すことのないように振る舞い続けるという閉鎖的なコミュニケーションが生まれてしまっています。物差しが明確であるがゆえに、その閉鎖空間においては「キャラ」からはみ出すことがなければ、安定的な評価を得られます。しかしその利点にしがみついてしまうのは、その居場所以外のところから評価(承認)を得ることができるかわからないという恐怖、臆病さがあってのことではないかと感じさせられました。この問題を通じて、自分の内にも他者の内にも、そして社会全体の内にも、確かに存在してしまっている臆病さに気づかされ、あらためて自分のあり方を見つめるようになりました。(組田菜穂子さん 1年)

 

◆世の中には、いろいろな正しさがあるのだなと感じさせられた。追い越し、追い越され、時に行き過ぎたりもして、そういったことがいつまでもぐるぐるとループしていく。戦争をすれば平和を求め、平和が続けば、今度は革命を求めたりするようにもなる。私たちは常にないものねだりを繰り返している。それだから、いつだって問題が山積み。正しさというものにまいってしまう。

 

信じて疑わないことが、容易ではなくなった。そのことが、現代の流動化する社会によく表れていると思う。話の中にあったホームレス対策もそう。飲食店に配置された硬い椅子だってそう。本来のおもてなしの心は、一体どこに行ってしまったのだろう。世の中が優しくないことに溢れている。優先席は優先するための席なのに、みんな関わり合わないように、それやそこに座る人を遠ざけて、素通りしていってしまう。私は困っている人に、実際に席を優先するために、敢えて優先席に座っていたいと思う。

 

私を含め、世の中の大体の人は、どこか誰かに転がされているような気がして悔しくなった。土井さんの本は、とても面白かった。恐ろしくシャープで、内容に圧倒された。もしこの本を、日本中にいるみんなが読んだなら、何かが変わるかしら。この本を読んだ私は、どこか変わったのかしら。(宮崎あかねさん 1年)

 

◆最後に土井さんが僕たちの学校に対して、「ここの環境に埋没していてはいけない」とおっしゃっていたのが頭に残りました。また「埋没しないために積極的に外の世界と関わるべきだ」ともおっしゃっていましたが、他の学校から転校してきた僕が考えるに、この学校の外の世界では、自分の意見をしっかり言う人というのは疎まれる傾向にあるように思います。もし積極的に外の世界と関わろうとしても、疎まれてしまったら意味がない。難しいところですが、個として外の世界に歩み出ることよりもまず、本当の意味で多様性が認められる社会が必要とされているのではないかと思いました。(山口雄史くん 2年)

 

◆身の周りの環境が、自分に大きく影響していることを痛感しました。自分の置かれた環境に何の疑問も持たず、ただ流されるように生活するのではなく、一歩引いた位置からそういった環境や自分自身を見つめるのも大切なことだと思わされました。(碓井多美子さん 3年)

 

◆「離見の見」といった、自分自身の中に第三者の視点を持つことはとても大事なことだけれど、それはとても難しいことだと思う。自分を正しい方向へと導くことは、頼りになる友達や大人に会うことでも可能かもしれないけれど、最終的にそれは、自分自身にしかできないことだろうと思う。これから新しい関係性を築いていく中で、自分自身を確かなものにしていかなければならないなと思った。(松岡穂乃実さん 3年)

 

◆『つながりを煽られる子どもたち』は、私には関係のない文章だと思っていました。でも話し合いを進めていくうちに、気がつけばその「つながり」の中に、自分も放り込まれていそうだなと怖くなっていました。こうならないようにしたいと思いつつ、でも今の時代、そういった「つながり」を重視する考え方の方が主流なのだと考えると、それも仕方のないことなのかなとも思わされました。

 

「アーキテクチャによる統制」というのは、初めて聞く言葉でしたが、内容はとても身近なものでした。社会はここまで人に不親切になってしまったのかと思わされましたが、そのことに今まで気づかなかったということにも驚かされました。どこまで社会に浸透している概念なのか、とても気になりました。(山田莉子さん 3年)

 

◆自分に「イツメン」はいないと思っているし、「イツメン」の輪がなくても毎日楽しくやっていることを少し誇りに思ってもいたけれど、ある意味特殊なこの学校において広がっている輪こそが「イツメン」なのではないかという土井さんの指摘は、新たな観点としてとても興味深かった。「イツメン」という、現代における友だち付き合いについて、より身近に捉えられるようになった。(山田瑠璃さん 3年)

 

◆遠くの人と繋がれるようになるにしたがって、自分と他人との距離は遠く離れていった。今やマナーは、自分以外の人を気遣い、コミュニケーションのきっかけを作るという目的よりも、それを破ってしまったらそこに余計なコミュニケーションが生じてしまうのを避ける目的で守られている。公共物までもが無言の圧力によって、その場に人を留まらせないように作られている。例えばベンチには寝られないように席の間に肘掛けが付けられているし、お店では長時間座っていられないような椅子が配置されている。人と人との距離が離れてしまった今こそ、暖かい公共の場を設けて、広く健全な人間関係を育んでいけるような場づくりに貢献していったらいいのにと思った。(浅川風子さん 3年)

 

※学年は実施当時のものです

上段左から、碓井多美子さん(3年)、山田瑠璃さん(3年)、コバレツあかりさん(3年)、宮崎あかねさん(1年)、山口雄史くん(2年)、下段左から、組田菜穂子さん(1年)、浅川風子さん(3年)、山田莉子さん(3年)、土井隆義先生、松岡穂乃実さん(3年)

撮影:松岡穂乃実さん(自由の森学園高等学校写真部/3年)

 

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