学問本オーサービジット(筑波大学協力)

「哲学の勉強」はどこまでいっても「実習」。ずっと考えていく、誰かと話していくこと

~「哲学カフェ」五十嵐沙千子先生+神奈川県立多摩高校6人

●オーサー 五十嵐沙千子先生

筑波大学 人文文化学群 比較文化学類/人文社会科学研究科 哲学・思想専攻

●神奈川県立多摩高校6人

●実施 2017年2月4日

多摩高校による当日のレポートはこちら 

『他者性の時代 ― モダニズムの彼方へ』

河上正秀:編(世界思想社)

五十嵐先生は、第1章『「生命倫理」入門』を執筆。

死ぬのって怖い、家族が病気になっちゃった、人ってなんで生きるんだろう、この先どうやって生きていけばいいんだろう、幸せって何なんだろう・・・。誰でもこう考えることはきっとあると思います。ひとりで考えていても、友達と話してもなかなか答えは見つからない。考えて眠れなくなることもあるかもしれない。でも、昔の哲学者も、あなたと同じように考え、あなたと全く同じことを悩んでいたんです。

哲学を勉強している私にできることは、そういう人たちの歩いた道を、あなたに繋いであげること。そしてあなたと一緒に考えていくこと。答は出ないかもしれないけれど少しでも明るい方に、実際には会えないあなたと、本の頁の上で一緒に歩いていきたいと思ってわたしはこの本を書きました。

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◆先生がオーサービジットで高校生たちと話し合いたい観点は何でしょうか。

 

哲学って、「まとめ」も「ポイント」も「概要」も必要ないもの、例えば「詩」みたいなもので、読んだ人に何が浮かぶかわからないし、でも読んだ人に何が浮かぶかが一番大切、そこだけにその哲学がある、と言ってもいいようなものだと思っています。だから、この本を読んで高校生のみなさんの心の中に浮かんだもの、生まれてきた疑問や考えたいこと、どんなことでも話し合いたいと思っています。

 

◆先生のご研究の分野である、哲学の中の「現代思想、政治哲学、合意論」についてご説明ください。

 

現代の社会を対象として、どうすればこの世界が不幸を解消できるのか、今の世界でどうすれば人が幸せになれるのか、どうすれば誰もが納得できるのかを、長い哲学の歴史を背景にして(特に20世紀以降の哲学者たちと一緒に)考える学問です。特に、「合意論」というのは、「私たちの外側から与えられた何かの真理」に依拠して正しい方へ進んで行こうとするのではなく、あくまでも「私たちの内側にある実感」から出発して、その上で、自分とは考えの違う他者と自分とが一緒に、本当にお互いが納得できることを探していくこと、探して行き続けることを「正しいこと」として選択する立場のことです。

 

◆オーサービジットで取り上げる本から、先生の分野について、何を知ることができますか。

 

この本は、「<人が幸せに生きるとはどういうことなのか>を哲学する」ことを体験する本です。例えば、自動車教習所でも、机に座って「交通法規」を「知る」勉強と、実際にハンドルを握って運転してみる「実習」があります。この本は、「本」なのに「実習」でありたいと思って書かれた本です。しかも、ほんとうは「哲学の勉強」って、どこまでいっても「実習」なのではないでしょうか。だって、哲学のテーマって「生きるとか何か」「愛するって何か」「持つって何か」っていうような、「答が出たらハイ終わり」「その答知ってるよ」って言えないようなものばかりだからです。ずっと考えていく、誰かと話していく、そうやって生きていく。そういう生き方が「哲学の生き方」なのかもしれません。

 

でも多分、この本の「実習」の過程では、「近代の哲学と現代の哲学がどう違うのか」「自分(哲学で言うと「主体」)って何なのか」「社会と自分はどう関係しているのか」という哲学の根本的な問題も「知る」ことができるだろうと思います。というのは、より良く考えていくためにはそのことを「知る」ことが必要だから。「自転車」や「車」があればもっと先に行ける、その「車」にあたるのが「哲学の知識」。でも、てくてく歩いていくのもとても良いものです。もっと難しいものではあるけれど。

 

自由とは、無益な「呪い」に縛られた自分自身からの解放

◆オーサーはどのような話をしましたか。

 

自由について話し合いました。先生によると、人は常にありとあらゆる固定観念(ここでは『呪い』と表現する)に囚われています。立場、制度、環境、経験など実に様々なものが起因して呪いは発生し、それは規範となって人々の行動を制限するのです。

 

ただその規範から外れれば人は自由になれるのかと言えばそうではありません。人間は必ず何らかの社会集団に属しているため、人に合わせる必要性からは逃れることができないからです。

 

それを踏まえ「自由」とは何かを考えると、無益な呪いに縛られた自分自身から開放されるということだと言えます。そのためには他者と積極的にコミュニケーションをとることが大事で、自分とは異なる価値観に触れることにより意味のない呪いにかかっている状態に気づき、それを取り去ることで人は自由になることができるということです。

 

◆とくに丁寧に説明があったのは、どのような内容でしたか。

 

「呪い」がどのようなものかということについて。呪いの原因ののうち、「立場」は、生徒、先生、部長などの肩書きを指します。「制度」は、大学を卒業した方が就職に有利だという社会の仕組みにより、「大学に行くのが当たり前の幸せ」だと思い込んでしまうことが例に挙げられました。「環境」が起因するというのは、教室では生徒は生徒として振る舞い、部活動中はその部員として相応しいとされる行動をするなど置かれている環境によって別の演技をするということです。そして「経験」は、「貴方はいい子だね」と言われた経験から「いい子にしていなければいけない」と思い込んでしまうなど過去の経験から固定観念が生み出されることを意味します。

 

このように、呪いの原因は様々あります。しかし、コミュニケーションを円滑にする上ではむしろこれらの呪いがプラスに働くこともあるため、呪いを完全に淘汰するべきだとは言えません。大切なのはより多くの人と関わることで自分の呪いを自覚し、少しでも人生の選択肢を増やすことです。

 

人と人が話し合うことで、次に進むことができる。哲学は、それを皆に気づかせる

◆オーサーの話では、どんな内容が印象に残っていますか。また、オーサーの話から、どのようなことを考えましたか。 

◆自由は(呪いのかかった)自分からの解放であるということ。今まで自由とは何なのか考察してきたが、どの結論もいまいち合点がいかなかった。自由を「自分が外部の影響を受けずに行動できること」という方向性で考察した結果、自由の存在を否定するか自由と身勝手の区別がつかなくなってしまうかのどちらかになってしまっていた。でもこの説明なら納得がいく。

 

ただ正確には呪いからの解放、ではないと思う。私は「呪いを自覚しコントロールできること」が自由だと思う。人間は社会に属すしかないのだから各個人の調和のためにある程度の法が必要だ。その法は、目に見える「法(法律など)」だけでは不十分であり、目に見えない「マナー」や「常識」も必要となる。それらの目に見えないものは一種の呪いだと言えるが、呪いだからといって排除するべきかというと決してそうではないだろう。大切なのは人間が社会で生活する上で役立つ有益な呪いと悪影響を及ぼす無益な呪いを選別することだと思う。

 

そして利用できる呪いは積極的に利用すべきだと思う。例えば「完璧でない者に価値はない」と考える者がいたとする。完璧な人間などいないというのは分かりきったことだ。そのような実現不可能な呪いがあったとき、それが原因で心を患ってしまえばその呪いは無益だ。だが「少しでも完璧に近づきたい」とやる気に変換できるのであれば、これは十分有益で利用できる呪いであろう。ただし、無自覚にやるといつか「完璧」が実現不可能だと気づいて挫折してしまう可能性が高いのでやはり自覚する必要はある。そもそも取捨選択をするためには呪いの存在を自覚できなくてはならない。

 

まとめると、呪いを自覚し、その呪いが自分にとって有益かどうか選別して、利用できるものに関しては積極的に利用することで人は自由になれると思う。(齋藤 歩さん)

 

◆性別や身分などによって「こうあるべきだ」というのは呪いであるという意見がとても印象に残った。ずっと「こうあるべき」というのは人として当たり前のことだと考えていたが、今日の話で自分の考えがすごく変わった。

 

「本当の自由」とは何なのか。自由には責任が伴うという意見もあるし、自由は楽しいという考えもある。多分自由というのはそんなに簡単に定義できるものではないと思う。最後に出た、定義したらそれもまた呪いになるという意見は面白いと思った。(仁藤晴暉くん)

 

◆「自由」という言葉は「自分に由る」(例 辞書に由る)という言葉なのに、その「自分」が人からの呪い(「~であれ」「~するべきだ」という意識・無意識下での抑圧の一種)に縛られている時点で、自分に由れなくなっている、その自分がどんどん変わっていく(コンピュータがアップロードされていくように)ということだ。

 

オーサービジットでは、自分の意思で参加し、楽な雰囲気で自分の言いたいことを正直に言えて、皆の正直に言うことも聞けて、良い会だったと思った。正直、自由って何かというのを考えるのは意味があるのかと思っていたが、深く考えるって、ある意味大切で、その機会は有り難いことなんだなと感じた。(菅原真紀さん)

 

◆人と人が話し合うことで、次に進むことができて、哲学は、それを皆に気づかせることが目的。一緒に進みたくない人や進めない人とも、進めない理由を解決すれば、一緒に進める。

 

自由になるのは難しく、自由になることで幸せになれるわけではない。「呪い」はあらゆるところにあり、一方、「呪い」から秩序を作れる。そんなことを考えた。(應家太郎くん)

 

◆「私は一人でいるのが好きなので一人でいられる自由の中にいたい」という意見に対して、「人と対話しなければ自由は得られない」というようなことを先生がおっしゃっていたのが印象的でした。一人がいいというのは自由じゃなく、ただのひとりよがりで、全く成長してなかったんだなと思いました。

 

自由の定義が難しく、人によって考え方が違うのが本当に面白かった(それも一種の自由だと思う)。私は「知る」ということが一番の自由だと思っているのですが、それがより深まりました。(八下田瑞穂さん)

 

◆誰かと一緒に過ごして、考え方を前進させていくことが自由であるということ。共感したし、自分の殻に閉じこもっているだけではダメだと思った。苦しくとも、人のいる所に向かって、自由を手にしようと思った。

 

自由ってとても定義が大変なものだと思った。けれど、それを求めていく過程自体も大切なんだなと思った。自由じゃなくとも、こうやって求めたり、探したりしなければいけないことはたくさんあるはずだとも思った。現代を生きる人間として見えない呪いをみつけて、それぞれ対処していきたい。(倉戸香苗さん)

 

左から 齋藤 歩さん、五十嵐沙千子先生、菅原真紀さん、仁藤晴暉くん、倉戸香苗さん、應家太郎くん、八下田瑞穂さん
左から 齋藤 歩さん、五十嵐沙千子先生、菅原真紀さん、仁藤晴暉くん、倉戸香苗さん、應家太郎くん、八下田瑞穂さん

五十嵐先生から、中高生におススメ本

『星の王子さま』

サン=テグジュペリ 河野万里子:訳(新潮文庫刊)

生きるとはなにか、自分であるとはどんなことか、人を大切にするとはどんなことなのかが美しい文章で書かれた本。今生きたいと思っているすべての人に。

 

固い心を持っていなければ大人の世界では生きていけない。でも柔らかい心を持っていなければ生きていく資格がない。本当に幸せに生きていくためには自分と世界が同時に開いていかなければならない。そうする勇気を与えてくれる本です。

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『ぼのぼの』

いがらしみきお(竹書房) 

ラッコのこどものぼのぼのが、身近な人たちとの生活の中で、日常に疑問を持って成長していく様子。考えることが好きなすべての人に。

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『寝ながら学べる構造主義』

内田樹(文春新書)

現代思想の流れが非常にわかりやすく読みやすい。現代思想に興味のある人に。

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『承認をめぐる病』

斎藤環(ちくま文庫)

家族との関係を考え直すことができる。自分の生き辛さを感じている人に。

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五十嵐先生はどんな授業をしているのか ミニインタビュー

◆先生が指導されている学生や大学院生の研究テーマを教えてください。

 

・ハイデガーの不安論

・ベルクソンの時間論

・カレン・ホーナイを基に、自分と母親との関係を考えていく

・国境とは何か

・ハーバーマスのコミュニケーション論 

など

 

◆先生のゼミの卒業生は、どんな就職先で、どんな仕事をされていますか。

 

IT企業や、高校教員などです。大学院への進学者や、青年海外協力隊に参加する人もいます。

 

◆先生は、どのような授業を行っていますか。

 

・講義は一切しません。人数に関わらずすべてアクティブ・ラーニングで、全員でディスカッションし、動いて考えていく授業をしています。(10人のゼミでも、200人のオムニバスの授業でも)

 

・テーマは学生から出してもらい(どんなテーマでも哲学のテーマなので)、それを哲学の考え方を使って深めていく授業をしています。

 

・筑波大学オススメ授業(『Bridge』)に私の授業がほぼ毎年掲載されています。

昨年の『Bridge』の原稿は以下のとおり。

「これは、自分で考えたことのないことを、考えたこともないところまで、みんなで考えていく授業です。専門も考え方も違う、文系・芸専・理系のいろんな学生たち、それから時にはハイデガーやカントや鈴木大拙も混じってみんなで話していく。真理論がテーマになることも恋愛やテロがテーマになることもある。答は見つからないかもしれないけれど、大切なことは、迷いながら、でも話し続けていくということ、みんなで考え続けていくということかなと私は思っています。」

 

◆先生は研究テーマをどのように見つけたのかを教えてください。

 

小さいときから家族や友達とよく話していて、話して一緒に考えるのが好きでした。「真実」と言われていることでも、話していくと疑わしかったり、でもその疑わしさの中から、納得できる答が見つかることもありました。それは世界が洗われるようでした。また、『泣いた赤おに』や『アンネの日記』など本を読みふける子供だったので、国境や境界線によって人が傷つくことが許せないとも思っていました。そこから「本当とは何か」「対話って何か」「人と人との境界線は何か」などのテーマが見つかりました。

 

ドイツにいたとき、留学していた韓国人の学生と日本の戦争責任について話したことも大きかったと思います。戦争で死んだすべての人たちに答えたい、答える責任があるという気持ちから、アイデンティティや国境、ナショナリズムの問題を考えるようになりました。

 

◆五十嵐先生の記事が読めるサイト

 

「哲学カフェとは何か」筑波大学オープンコースウェア(動画)

 

ソクラテス・サンバ・カフェ

(筑波大学人文社会科学研究科哲学・思想専攻の先生が主宰する哲学カフェのHP)

精神科医・斎藤環と話す(動画)

 

現代思想コース(筑波大学・比較文化学類)の紹介ムービー

 

他校での五十嵐先生のオーサービジットの様子

撮影・制作 木下雄介