学問本オーサービジット(筑波大学協力)
五十嵐沙千子先生と、自由について話してみた(at多摩高校)

今年も筑波大学と河合塾みらいぶプラスの合同企画、「筑波大学オーサービジット」を多摩高校で開催しました。今年の先生は、現代哲学がご専門の五十嵐沙千子先生。お茶とお菓子を囲んで、6名の多摩高生が、たっぷり2時間「哲学カフェ」を楽しみました。
チェックイン
まず、輪になって座った6人と先生が、「チェックイン」を行いました。この会での呼び名とどうしてここに来たのかを話していきます。まず口を開いたのは、「マックス」。「自由について話をすると聞いたので来てみました。多摩高校では今、自由をめぐって、ちょっとした論争が起きているので」という話に、先生は「いいね」と相槌を打ってくれました。
倫理の授業や、現代文の評論文が最近楽しいという「クラ」と「アイウメ」、部活がOFFだった「スガワラ」は、大学の専門の先生のお話を聴いて、いろんな考えを知りたいと思って参加を決めました。「ほずみん」と「タロウ」は去年に引き続いてのオーサービジット。「ほずみん」は、今年の参加はどうしようか迷ったけど、進路のことを少し悩んでいるので、自己決定についての話と聞いて参加しようと思ったようです。
五十嵐先生も「さっちゃん」としてチェックイン。大学の授業でも、学生からは「先生」ではなく「さっちゃん」と呼ばれたいそうです。
「だって私は研究者だから、わからないこともたくさんある。間違ってることも言っちゃうかもしれない。でも『先生』は間違えちゃいけないじゃない?『先生』って言われたら、私、思ってもないこと言っちゃうかもしれない。それって、呪いだよね。私は好きなこと、思ったことを話したいから、『先生』じゃなく、『さっちゃん』って呼ばれたいの」というお話に、「先生と呼ばれたら、『あなたは違うよ』って言われてるみたいな気がすると思う」と答えた人たちは、ウンウン共感。でも、「先生と呼ばれたら、『エッヘン』って感じでいい気分だと思う」と答えたマックスが多摩高の面白い先生を紹介しました。
「その先生は、授業中に『インフルエンザウィルスは、北極で変な科学者が作ってるんじゃないか』とか話してて、計算も時々間違えて、『間違えてますよ』って指摘すると『早く言えよ~』って全然悪びれない(笑)。『先生』の中にも呪いにかかってない人もいますよ」
「生徒からすると、呪いにかかってない先生の方がいいよね」
「ザ・先生!っていうタイプの授業は、正直眠くなる~」
と、場が温まったところで、さっちゃんから投げかけがありました。
「でももしかしたら、私たちも呪いにかけられてる?さっき、みんな緊張してた?最初はなんか自由に話ができなかったじゃない?私たちが自由にふるまえなかったのはなぜなのかな。それって、呪いじゃないのかな?」
確かに、自由に思ったことが話せなくなることって、けっこうある。私たちにかけられているかもしれない「呪い」って、どんなものがあるだろう?
委員会や部活動でリーダーをやっているアイウメやクラは「部長だから、委員長だから」という肩書に、必要以上に「ちゃんとしなきゃ」と思わせられていると発言しました。性別の違いも、もしかしたら私たちの行動を縛る「呪い」かもしれません。そういえば、英語表現の授業で「もしも異性になれたら」という英作文をしたとき、男子は女子になりたくない人が多かったそうです。そこでさっちゃんから不思議な疑問が。
「マックスは女子になりたくないの?じゃ、今は何をやってるの?男子をやってるの?」

何気なく椅子に座っているその姿勢を見ても、「ここは教室だから」「男子だから」「女子だから」この姿勢で座っているのかもしれない。でも、本当に女子だったら、どういう時も女子のはず。女の子だからこういう座り方はできないとか、みんな、男子か女子かのどちらかに入ろうとして、「女子をやってる」んだよね。
「呪いにかかる人とかからない人」
「委員長とか部長とかで、ちゃんとできないと『なにあいつ』って思われてるかも…って言っていたけど、よく考えたら少なくとも私は、『委員長だからちゃんとやれ』とか『女のくせに』って言われたことないんだよね」というスガワラの発言で、呪いは誰かにかけられているのではなく、自分の中からどんどん出てくるものなのではないかと話題が移りました。呪いにかかる人は、才能や地位、容姿などありとあらゆるものが呪いになる。人間は他の生き物に対しての、相対的な存在だから、人間であるというのも呪いになるかも!と、タロウが発言。じゃあ、「自分がこうしたい」と、強く思っていたら呪いにかからないのでは!!と、自由になるための方法が見つかったと思った瞬間、さっちゃんから待ったがかかります(笑)
「じゃあ、マックスがここでスカートはいてたら、みんなどうする?先生が間違えてばかりだったら?毎晩遊びに行っちゃう母親って、どう?」
やはり、100%受け入れられるという人はいませんでした。だけど、今話題にしている「呪い」が全くなかったら、それは幸せなのかな?呪いではなく、「ルール」とか「常識」と呼び換えたら、それは必要なものなのでは?という意見も出ます。
ルールと呪いの違いは、自分の外にあるか中にあるかということ。自分の外にある「ルール」は、目に見えるから変えられる。でも「呪い」は自分の中からわいてきて、知らない間に縛られてしまう。縛られていることも自覚できないから変えることもできないのかもしれません。
「○○なんだから」「○○のくせに」という、名前の呪い
さっちゃんがここまでの話をまとめてくれました。
男の子だってスカートはくのは自由じゃない?自分を「先生」と思うと、先生のふるまいしかできなくなる。境界線を作ってパフォーマンスが低くなるくらいなら、「先生」とは別の在り方を選んでいい。母親だって遊びたい。でも、「男のくせに」「先生なのに」「母親失格」と言われてしまう。「名前」が呪いなんだよ。
確かにこれは、不幸になるための呪いではなく、みんなが社会で安全に生きるための秩序だね、でもそこには「自由」はない。「ここまでならいいよ」と許された自由は、自由なのかな?私たちの自由は、限られた自由を選べるっていうことに過ぎないのかな?
…さっちゃんにまとめられて、「自由」の定義が、どんどんわからなくなってきました。
さっちゃんのエッセイ「生命倫理入門」で、代理母という選択が「恐ろしいこと」という話題があったけど、技術的にできるなら、別に危なくないじゃんって思った。〈マックス〉

話題は、だんだん核心に迫っていきます。「代理出産とか、自分が病気になった時に貧しい国の人の臓器を買うとか、確かに技術的には可能だよね?でもそれを選ぶことは『自由』なのかな?私たちが望むことを選ぶのが『自由』なんだろうか?」
――そもそも私には、「子どもがいないから子どもが欲しい」っていうのがよくわからない。いないものを欲しいってどういうことなの?本当は「女なのに」「結婚したのに」と言われるのが嫌なんじゃないのかな?子どもを「持つべき」なのに持てないから…だから自分の価値が低くなるから…だから子どもが欲しいんだったら、それって、呪いから自由になってないんじゃないの?そもそも「人間」を欲しいとか欲しくないとか、言えることなの?
このさっちゃんの質問に、意見は二つに分かれました。
クラは「出産もそうだけど、育児もすごく大変って聞く。呪いのために子どもが欲しいって思って、出産して大変な育児に巻き込まれていくって、どんどん大変なスパイラルになるような気がする…」と発言。ほずみんは「絶対的な自由ってなくて、相対的なものでしかないと思う。子どもは持っても持たなくてもいいって言う人も、それは『子どもは持つべき』っていう固定観念の上でそう考えている。自由の下には呪いがある」。
確かに、最近は「男性でも女性でもなく、性的マイノリティであることを隠さないでいる」という選択肢があるけれど、「性的マイノリティ」というカテゴリが認められたとしても、「ちょっと違う人」って思っちゃう。新しい括りができても、「特殊」と見られるのは変わらない。男であることも、女であることも、性的マイノリティであることも呪い。
性的マイノリティだからスカートはいてもいいでしょ?じゃなくて、タロウとしてスカートをはいていいっていう「自由」は、一体どこにあるのかな?
さっちゃんから60期のみんなへ

「自由」って、「自分」に「由る(よる)」って読むよね。でもよるべき「自分」がしたいと思っていることは、たいてい、親や社会や常識、つまり、人がしたいと思っていること。他者の欲望なんだよ。みんなが大学に行きたいのは、大学の中身を知ってるからじゃない。人が行きたいと思ってるから自分も行きたい。こうしないと評価されない、愛されないと思うから、他者の欲望が自分の欲望になってしまう。
でもそれは仕方がないことかもしれない。いつでも、私たちの社会は全員が、常識とか秩序とかいう呪いにかかっている。人と人とがいるということは、違う考えを持つ人と人とがいるということだけど、社会っていうのは、そうじゃない。「社会」っていうモノがあって、「私は違うと思う」と言う前に、もう染まっちゃってる。でも、外国に行くと、日本とは全然違うルールで、先生のこと「ペータ」って呼んで、すごく新鮮だった。そういうのがなくて、「違うんじゃない?」っていう人、変な人を排除しちゃってるのはつらいよね。
「自由」って、違う考えを持っている人同士が出会って、話して、変わっていけることだと思う。人と話しておかしいと思ったら、「おかしい」と言える。誰かと話すことで、今の自分を後にして、殻をやぶって変わっていけること。それが「自由」「幸せ」だと思う。
だから、一人では自由でも幸せでもない。それに、縛られてる方が安全だから、呪いのかかった自分から自由になると、辛い。だから、安全は幸せではない。人が与えてくれるゴールを目指していくのが人生ではなく、その時その時誰かと話すこと、変わっていけることが人生だと思うよ。そして、そんな風にみんなで話せるようにするのが哲学です。死んだら変われないよね?呪いに気づかずに変われないのって、死んでるよ!みんなで一緒に生きてるのがいいよね!
