学問本オーサービジット(筑波大学協力)
社会哲学という観点から、原発の本質的危険性や社会的矛盾について考える
~『脱原発の哲学』を読んで
社会哲学、社会思想・佐藤嘉幸先生+東邦大学付属東邦高校5人

●オーサー 佐藤嘉幸先生
筑波大学 人文・文化学群 比較文化学類/人文社会科学研究科 現代語・現代文化専攻
●参加者 千葉・東邦大学付属東邦高校有志5人(全員2年)
●実施 2018年1月9日
『脱原発の哲学』
佐藤嘉幸、田口卓臣 (人文書院)
福島第一原発事故から五年、ついに脱原発への決定的理論が誕生した。科学、技術、政治、経済、歴史、環境などあらゆる角度から、かつてない深度と射程で論じる巨編。
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◆先生の研究分野である、「社会哲学、社会思想」について簡単にご説明ください。

社会哲学、社会思想とは、社会の中に存在する様々な問題を哲学的に考察する学問です。例えば、社会はどのような原理で構成されているか、権力とは何か、より自由で生きやすい社会とはどんな社会か、といった問題を取り上げ、それについての「常識」にとらわれず、その先にある根本的な問題を考えるといったアプローチを取ります。
◆オーサービジットで取り上げる本から、先生の分野について、何を知ることができますか。
例えば、第一部では核兵器と原子力発電の関係を取り上げ、原発が核兵器の技術から生まれたこと、また原発が政治的には単に発電を目的としたものではないことを論じています。また、第三部では原発と差別の関係について論じています。ここから、社会哲学が、社会の具体的な問題から出発して、どのようにしてより自由で生きやすい社会を作っていけばよいかを考える学問であることがわかると思います。
◆オーサービジットではどのような講義やディスカッションがされましたか。
オーサービジットでは、私と田口卓臣(宇都宮大学)の共著『脱原発の哲学』で扱った主要なテーゼをお話しし、原発が市民社会と共存できない根本的な理由、そして自然エネルギー社会への展望について、高校2年生のみなさんと一緒に考えてみました。
原発とは実は核兵器のテクノロジーを応用して、それを商業利用したものにすぎません。原発の技術的原理はそもそも大量破壊兵器を作るために開発されたものです。このため、原発は発電に伴って、非常に大きなエネルギーを作り出すと同時に、人間にとって危険な大量の核廃棄物(プルトニウムもその一つ)を作り出し、それを原子炉の中に蓄積しています。だからこそ、原発を制御することは容易ではなく、また事故が起きて大量の核廃棄物が私たちの生活する環境の中に放出されれば、それは私たちの生命をも脅かしかねない危険を生み出すのです。
こうした本質的危険のため、原発は大都市に設置することはできず、人口の少ない地方に、大量の国の補助金と引き換えに押し付けられることになります。この事態を私たちは都市による地方の「構造的差別」と呼んでいます。こうした差別をなくすためにも、原発に依存しない、自然エネルギーを中心とした、より自由で平等な社会を作ることが求められています。
◆生徒からの質問で、印象的だったものはどんな内容でしたか。
「原発は確かに危険だとわかりましたが、石油が枯渇したときに、やはり原発で電気を生産するという選択肢は残しておいたほうがいいのではないでしょうか、また、原発の電気は自然エネルギーに比べてコストが安いというし、自然エネルギーについて、例えば風力発電だけで日本の全電力を生み出すことは難しいというアメリカの学者の論文を読みましたが、それについてどう思われますか」という質問があり、事前によく調べてきたのだと感じました。
それに対する私の回答は、次の通りです。まず、石油も枯渇資源だが、原発の燃料であるウランは石油と同じく枯渇資源で、しかも埋蔵量が少ないことから、石油よりも早く枯渇されるとされています。そのため、石油が枯渇したときには、もはや原子力にも依存できない可能性が高いでしょう。
さらに一歩踏み込んで言うなら、私は、原発は典型的に前世紀的なテクノロジーだと考えています。大きなエネルギーを1箇所で作って、それを各所に届けるという中央集権的な考えに依拠しているからです。しかし、インターネットを考えてもわかるように、現在のテクノロジーはむしろ分散型のネットワーク構造が主流になっています。そして、自然エネルギーは各家庭や各地域で作り、それをネットワークに乗せて需給調整を行うという意味で、典型的な分散型のネットワーク構造を持っています。このタイプのエネルギー生産が今後の世界で主流になっていくはずですし、こうしたネットワーク型の需給調整は、いまやIT技術の進歩によって容易になっています。
自然エネルギーは、風力発電だけではなく(風力発電は、日本沿岸の海上にも設置でき、設置場所はいくらでもあります)、バイオマス発電、地熱発電、太陽光発電など多様で、大量生産と普及に伴って経済的にもどんどんコストが安くなっています。それに対して原発は、事故を防ぐために様々な追加の安全装置を必要とするようになり、どんどんコストが高くなっています。自然エネルギーは今後の経済発展の起爆剤にもなる。福島第一原発事故前の原発の電力生産に占める割合は30%でした。その程度の電気を自然エネルギーでまかなうことは、今では容易です。そして、経済的なコストの面から考えても、もはや原発に依存する理由はないと思われます。
◆生徒とのディスカッションで盛り上がったのは、どんな内容ですか。
多くの生徒から出た意見は、差別に依拠して地方に原発を押し付けるのは嫌だが、それでは脱原発の後、原発の立地地域はどうなるのかという点でした。
それに対する私の考えは以下の通りです。まず、脱原発を決めても廃炉のために数10年の時間が必要になるので、その間に、産業構造を変えるための対策をしなければなりません。原発は国の政策で立地したものなので、産業構造の転換にもまた、国が責任を持って対処しなければならないでしょう。自然エネルギーは地方自治体や市民レベルでも生産することができ、地方の経済活性化のための一つの手段になります。また、そのためには地方だけではなく、都会の市民も、地方活性化の問題に関心を持ち、それを支援していくことが必要になるでしょう。
それに対して生徒たちからは、炭鉱閉鎖後の夕張市のように地方が寂れていかないためにも、この問題に関心を持ち続け、自分たちでできることを行っていくことは重要だ、という回答がありました。
原子力発電がもたらす地方差別を知る
<学問本オーサービジットに参加して>
◆オーサーの話でどのようなことが印象に残っていますか。
原発は、低人口地帯に作るよう決められており、貧しい地域に「お金はあげるから、危険なものを置いて」というような形で作られます。何かあったときに被害を受けるのは、その貧しい地域の人々ですが、豊かで人が集まっている地域に原発を作ると言っても「嫌だ。」と言われればそれまでです。これは「差別」です。こういった、哲学的な視点から原発を考えました(M.Yさん)。
原子力発電がもたらす地方差別について初めて知り、とても驚きました。原子炉を受け入れることで、交付金を手に入れられることは知っていましたが、その財源に依存して、続々と原子炉を建設してしまうと知り、なぜ同じ地域に原発がたくさんあるのか理解できました。また、原発から排出される核廃棄物は、処理することができないものだというお話の中で、先生の「原発はトイレのないマンションだ」という表現で、すぐに想像することができました(N.Tさん)。
原子力は、21世紀においてもはや古い技術だというのが印象的でした。原子力は、1カ所で莫大なエネルギーを作るという発想に基づいていて、その集中的に発電すべきだという考えは20世紀のものです。特に原子力は本質的に危険なものであるから、人口の多い地域の利益(電気を受け取る)のために、その「集中的」な発電所は過疎地域に押し付けられがちです。そのような危険の押し付け状態を改善させるには、分散的にネットワークとして、安全なエネルギーを用いる、具体的には再生可能エネルギーを用いるべきであり、そのネットワークとしてのエネルギーが21世紀に見合った、推進していくべき技術だと、先生は考えていらっしゃいました (R.Hくん) 。
◆オーサービジットで取り上げられた本について、とりわけ面白いと感じたところはどこですか。
東京電力の電力供給範囲に入っていない福島に発電所が建てられていたのは、建業時の交付金システムによるものであり、それを一種の差別だとして主張しました。経済的格差から事故のリスクと金銭が等価であるように振る舞うことこそが差別だとしました(S.Tくん)。
「核アポカリプス不感症」のアポカリプスというのは、新約聖書巻末の一書である、黙示録のことで「世界のおわり」というような意味です。世界を簡単に滅ぼす核が身近にありながら、人々はそれを見ないように感じないようにして生きています。このような、原発の健康被害の問題以外の人の心や、経済格差により生じる問題など、いろいろな視点から原発を考えることができました(M.Yさん)。
私は、第三部一章に特に興味を持ちました。原発に依存してしまう地方財源の問題点が細かく説明されていて、地方の現場に驚かされることばかりでした。私たちの使っている電力のために、原子炉を持つ地域がどのような状況に陥ってしまったのかということは、誰もが知るべきです(N.Tさん)。
◆オーサービジットを振り返って、読書やオーサーの話、ディスカッションから、どんなことを考えましたか。
原発問題に差別的な問題や、核による危険がなくなるのなら、自然エネルギーをより広めていくべきではないのかと思いました。原子力の恐ろしさをよくわかっているはずの日本が、核抑止力だの9条改正だの言っていて大丈夫なのかというようなことも、考えてしまいました(M.Yさん)。
2011年の大震災での福島原発事故によって、ほとんどの原発が活動停止しましたが、それから自然エネルギーが普及し、夏のピーク時の発電事業を乗り切ることができたということが印象深いです。これから様々な方法で自然エネルギーを増設し、原発なしでも生活できる世界になる日が来るのだろうか、と考えました(N.Tさん)。

興味がわいたら
『プルトニウムの恐怖』
高木仁三郎(岩波新書)
高木仁三郎は、日本における代表的な「批判的科学者」の一人で、1975年に「原子力資料情報室」を設立し、後にその代表を務め、一貫して原発の危険性と脱原発を主張してきました。『プルトニウムの恐怖』は、原発がいかに核兵器と切り離しがたく結びついた危険な技術であるかを、プルトニウムという原発材料との関係で明らかにした名著です。
私は原発や核問題の専門家ではなく、むしろ社会哲学という観点からこの問題にアプローチして、原発の本質的危険性や、福島第一原発事故のもたらした様々な社会的矛盾について考えようとしてきました。そのために、原発問題の中でも、社会的な差別や、原発の核兵器との本質的な関係性など、より原理的な問題について考えています。
本書は、科学者である高木仁三郎によって書かれていますが、そうした原理的問題を中心に扱った名著です。また、下記の小出裕章『原発のウソ』も、同じような原発の本質的危険について、社会的差別のような観点も含めた原理的な観点から考察しており、本書とともに、高校生にも十分に理解できる名著であるということができます。
『原発のコスト』
大島堅一(岩波新書)
原子力発電は火力発電や水力発電よりもコストが安いと宣伝されてきましたが、著者はそのコストに、原発を立地するための政治コストが含まれていないことに注目し、再計算をして原発が最もコストが高い電源であることを明らかにした。経済学的な観点から原発について考えるための基本書です。
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『原発のウソ』
小出裕章(扶桑社新書)
小出裕章は、京都大学原子炉実験所で批判的科学者集団「熊取6人組」を形成した「批判的科学者」の一人です。本書は、原発、放射能、被曝をめぐる論点を網羅し、その内容が多くの人々に伝わるよう平易な言葉で書かれた基本書です。
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『監獄の誕生』
ミシェル・フーコー 田村俶:訳(新潮社)
私の本当の専門は、本書のような20世紀フランスの哲学・思想です。『脱原発の哲学』において、私たちはフーコーの権力理論を、原発をめぐって作動する「権力=知」の析出、批判のために応用しました。フーコーは『監獄の誕生』で権力と科学的知の本質的な結びつき(「権力=知」)と、主体の権力への服従化のメカニズムを精緻に明らかにしています。
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